硫黄島島民平和祈念墓地公園
昭和19年、戦争の激化に伴い硫黄島においても島民の強制疎開が行われました。島民の中でも壮健な若者は軍属として徴用され、82名の島民が軍と運命を共にしました。
本公園は、小笠原村が未来永劫の平和の願いを込めて、平成2年に戦前の島民墓地の敷地に整備しました。公園内には、祈りの塔「やすらぎ」を整備し、82名の霊を慰めるとともに、墓参で訪れた際には旧島民の祖先をお祀りする場となっています。
また、献花台も整備し、硫黄島訪島事業の際には慰霊祭を開催しています。
なお、島民墓地には、278名が埋葬されています。
小笠原村硫黄島平和祈念会館
硫黄島への帰島が叶わない旧島民が訪島事業、墓参、遺骨収集などで硫黄島を訪れる際、短い時間でも故郷の島で宿泊出来る施設として、平成14年に小笠原村が整備しました。
硫黄島戦没者の碑(天山慰霊碑)
硫黄島で戦没した日本軍2万余名の将兵をしのび、その霊を慰める慰霊碑として、昭和46年に当時の厚生省が建立しました。この碑は、海軍北地区の指揮所であり、最後の拠点として組織的戦闘が行われた天山壕の上に造られており、天山慰霊碑とも呼ばれています。
谷口吉郎氏の設計で、慰霊碑御遺骨を納める遺骨箱をかたどっており、これは、勇敢に戦い祖国の礎となられた勇士の霊を象徴しています。石碑の上部の天井には、天窓が設けられています。これは、暗い地下壕の中で日光にあこがれ飲料の雨水を激しく求めた戦士の心境を暗示したものです。
厚生労働省:硫黄島戦没者の碑
https://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/seido01/ireihi01.html
鎮魂の丘
日米すべての戦没者の慰霊のため、昭和58年に東京都により建立され、この辺りの台地が「鎮魂の丘」と名付けられました。建築家相田武文氏が設計し、井上靖氏が碑銘の選定を行っています。
この島で散ったすべての方々が水の渇きを訴えたといわれています。鎮魂への思いを「水」で、平和祈念を「花」で象徴し、献水すると水盤の水があふれ、参列広場中央の導水路を伝わって後方の花壇に注がれます。
鎮魂の丘の真下には南地区隊の戦闘指揮所があり、地区隊長の名前から粟津壕と呼ばれています。
東京都福祉局:硫黄島「鎮魂の丘」
https://www.fukushi.metro.tokyo.lg.jp/seikatsu/senso/chinkonnooka.html
摺鉢山
摺鉢山は、横から見ると噴火口から煙が出てパイプのように見えるから、別名、パイプ山とも言われています。
標高は170mで硫黄島の最高峰です。米軍の激しい艦砲射撃や侵食により、海側が崩れてきています。
山頂には、『日本戦没者顕彰碑』、『特攻隊慰霊碑』、『海兵隊上陸記念碑』等が設置されています。
硫黄ケ丘
島内でも最も硫黄が露出している地域です。
戦前は、硫黄島産業が硫黄の採取と蒸気熱を利用して、レモングラスから香料の原料を精製していました。
戦時中は、海軍によって厨房施設として利用されていました。
硫黄島神社
戦前、最大の部落があった元山地区にあり、島民の社交場でした。年に一度の祭りには、村民総出でサトウキビ焼酎、「硫黄島正宗」を飲みながら歓談したといわれています。
現在ある鳥居と社は、戦前に神社のあった付近に、戦後復元されたものです。
サトウキビ圧搾機跡
令和5年、自衛隊の有志によりサトウキビ圧搾機跡の周辺が整備されました。戦前は、牛を動力源にして、この機械でサトウキビを絞り砂糖の原料や、しぼりかすでサトウキビ焼酎を作っていたそうです。
戦前の硫黄島での暮らしを感じられる数少ない場所です。
銀明水
岩の下から出ている水蒸気が冷されて、水滴となり、唯一真水のとれる場所です。戦時中はここに水を求めてやってきた多くの日本軍兵士が、待ち伏せした米軍により命を落としました。
第204設営隊釜場跡
海軍の第204設営隊は5個中隊からなっており、任務は壕の掘削・炊飯・配達・物資の管理支給・食料および水の調達等でした。同隊員のうち2,271名が戦死しました。
軍属として残された島民の多くがこの部隊に所属し、70名が軍と運命を共にしました。現在でも炊事用の釜場、天水槽などが残っています。
水平砲
海軍の14糎砲で、重巡洋艦の副砲と同型です。
米軍の上陸作戦開始前、掃海作業をしている米艦艇に向けて発砲し、隠密にされていた摺鉢山の砲群が破壊されました。そのため『勇み足砲台』と呼ばれています。
この砲は、平成4年の遺骨収集時に発掘されました。
最後の突撃壕
小笠原兵団長の栗林中将が最後の突撃を行う前に滞在していたといわれる壕です。歩兵第145連隊壕の一つと思われ、この壕を含め付近の壕から数百名の将兵が総攻撃を行い玉砕しました。これをもって、硫黄島における組織的戦闘が終わったとされる壕です。
平成19年に収容作業が行われ、59柱の御遺骨が収容されています。
厚生労働省:最後の突撃壕
https://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/seido12/photo-iwotou04.html
兵団司令部壕
写真左下が壕入口
昭和19年、陸軍の小笠原兵団が発足し、第109師団長の栗林忠道中将が兵団長を兼ねることになり、この壕は、その司令部があった壕です。(栗林壕とも呼ばれています。)
内部には、コンクリート製の強固な部屋がいくつかあるほか、広い天然の壕もうまく活用しています。
昭和20年3月、栗林中将はこの壕で決別の電報を打ち、総攻撃に際しての作戦会議を行なったと言われています。
医務科壕
海軍の硫黄島警備隊医務科壕で、病人や戦傷者が多く滞在したとされます。奥行き約50m、総延長約112mで、他の壕と比べて大きな造りになっています。通気のための縦穴が掘られていますが、奥の方は地熱で40~50度近くに達します。壕内には、兵士たちが使っていたとみられるやかんなどがいまも残されています。
戦後の遺骨収集で54柱ものご遺骨が収集されました。
貨物廠壕(かもつしょうごう)
陸軍の野戦貨物廠壕で兵器・弾薬以外の物資の補給を担当しました。総員73名の部隊に島民13名が所属して島に残りましたが、12名が玉砕しました。
再会記念碑
硫黄島上陸作戦の開始から40年後の同日に、島で戦った日米双方の兵士とその遺族ら502名が、第1回の硫黄島戦没者合同慰霊顕彰式で再会しました。この碑は、その際に日米両国の永遠の平和と友好を誓って、硫黄島協会と米国海兵隊第3・第4・第5師団協会が共同で建立した記念碑です。
米軍上陸記念壁画
米海軍設営隊が「硫黄島の戦い5周年慰霊祭」の際に、土丹岩(どたんがん)に彫り込んだ壁画です。
米従軍カメラマン ジョー・ローゼンタールが撮影し、ピュリッツァー賞を受賞した摺鉢山に星条旗を揚げる写真がモチーフとなっています。