硫黄島島民平和祈念墓地公園
![硫黄島島民記念墓地公園](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_a.png)
![硫黄島島民記念墓地公園2](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_b.jpg)
昭和19年、戦争の激化に伴い硫黄島においても島民の強制疎開が行われたが、島民の中でも壮健な若者は軍属として徴用され、82名の島民が軍と運命を共にしました。
本公園は、小笠原村が未来永劫の平和の願いを込めて、平成2年に戦前の島民墓地の敷地に整備しました。公園内には、祈りの塔「やすらぎ」も整備し、82名の霊を慰めるとともに、墓参時に旧島民の祖先をお祀りするための祀り所となっています。また、献花台も整備し、硫黄島訪島事業の際には慰霊祭を開催しています。なお、島民墓地には、278名が埋葬されています。
小笠原村硫黄島平和祈念会館
![小笠原村硫黄島平和祈念会館](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_c.png)
硫黄島への帰島が叶わない旧島民が訪島事業、墓参、遺骨収集などで硫黄島を訪れる際、短い時間でも故郷の島で宿泊出来る施設として、平成14年に小笠原村が整備しました。
硫黄島戦没者の碑(天山慰霊碑)
![日本軍戦没将兵慰霊碑](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_d.png)
![日本軍戦没将兵慰霊碑2](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_e.png)
硫黄島で戦没した2万余名の将兵をしのび、その霊を慰める慰霊碑として、昭和46年に当時の厚生省が建立しました。この碑は、海軍北地区の指揮所であり、最後の拠点として組織的戦闘が行われた天山壕の上に造られており、天山慰霊碑とも呼ばれています。慰霊碑の側に納骨堂が建立されており、新たに発見されたご遺骨は本土の千鳥ヶ淵に納められるまで、一時的にここに安置されます。
鎮魂の丘
![鎮魂の丘](/wp-content/uploads/sites/2/2020/01/iou_photo_f.jpg)
![鎮魂の丘2](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_g.jpg)
日米すべての戦没者の慰霊のため、昭和58年に東京都により建立され、この辺りの台地が「鎮魂の丘」と名付けられました。建築家相田武文氏が設計し、井上靖氏が碑銘の選定を行っています。鎮魂の丘の真下には南地区隊の戦闘指揮所があり地区隊長の名前から粟津壕と呼ばれています。
摺鉢山
![摺鉢山](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_r.png)
![摺鉢山2](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_h.png)
摺鉢山は、横から見ると噴火口から煙が出てパイプのように見えるから、別名、パイプ山とも言われています。標高は170mで硫黄島の最高峰です。
米軍の激しい艦砲射撃や侵食により、海側が崩れてきています。
山頂には『日本戦没者顕彰碑』、『特攻隊慰霊碑』、『海兵隊上陸記念碑』等が設置されています。
硫黄が丘
![硫黄が丘](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_i.png)
![硫黄が丘2](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_j.jpg)
島内でも最も硫黄が露出している地域です。
戦前は硫黄島産業が硫黄の採取と蒸気熱を利用して、レモングラスから香料の原料を蒸留していました。
戦中は、海軍によって烹炊(ほうすい)施設として利用されました。
硫黄島神社
![硫黄島神社](https://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/wp-content/uploads/sites/2/2020/01/iou_photo_k.jpg)
![硫黄島神社2](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_l.jpg)
戦前、最大の部落があった元山地区にあり、島民の社交場でした。年に一度の祭りには、村民総出でサトウキビ焼酎、「硫黄島正宗」を飲みながら歓談したといわれています。
現在ある鳥居と社は、自衛隊員の手により復活されたものです。
水平砲
![水平砲](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_m.png)
海軍の14糎砲で、重巡洋艦の副砲と同型です。
米軍の上陸作戦開始前、掃海作業をしている米艦艇に向けて発砲し、隠密にされていた擂鉢山の砲群が破壊されました。そのため『勇み足砲台』と呼ばれている。この砲は、平成4年の遺骨収集時に発掘されました。
兵団司令部壕
![兵団司令部壕](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_n.jpg)
昭和19年、陸軍の小笠原兵団が発足し、第109師団長の栗林忠道中将が兵団長を兼ねることになり、この壕は、その司令部があった壕です。(栗林壕とも呼ばれています。) 内部には、コンクリート製の強固な部屋がいくつかあるほか、広い天然の壕もうまく活用しています。昭和20年3月、栗林中将この壕で決別の電報を打ち、総攻撃に際しての作戦会議を行なったと言われています。(写真左下が壕入口)
医務科壕
![医務科壕](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_o.png)
![医務科壕2](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_p.jpg)
海軍の硫黄島警備隊医務科壕で、奥行き約50m、総延長約112mで、他の壕と比べて大きな造りになっています。通気のための縦穴が掘られているが、奥の方は地熱で40°~50°あります。病人や戦傷者が収容されていたらしく、戦後の遺骨収集で54柱ものご遺骨が収集されました。
第204設営隊釜場跡
![第204設営隊釜場跡](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_q.jpg)
海軍の第204設営隊は5個中隊からなっており、任務は壕の掘削・炊飯・配達・物資の管理支給・食料および水の調達等でした。同隊員のうち2,271名が戦死しました。軍属として残された島民の多くがこの部隊に所属し、70名が軍と運命を共にしました。現在でも炊事用の釜場、天水槽などが残っています。
貨物廠壕(かもつしょうごう)
![貨物廠壕(かもつしょうごう)](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_s.jpg)
陸軍の野戦貨物廠壕で兵器・弾薬以外の物資の補給を担当しました。総員73名の部隊に島民13名が所属して島に残りましたが、12名が玉砕しました。
米軍上陸記念壁画
![壁画](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_t.png)
米従軍カメラマン、ジョー・ローゼンタールが撮影した『摺鉢山に星条旗を揚げる6人の兵士像』の写真を元に、米海軍設営隊が「硫黄島の戦い5周年慰霊祭」の時に土丹岩に彫り込んだ壁画です。
同写真は、1945年のピュリッツアー賞を受賞している。
最初は、5人の像が彫られていたが、うち一人がアルコール中毒症となったため、後になって削り取られたと言われています。
再会記念碑
![再会記念碑](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_u.jpg)
![再会記念碑2](/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/iou_photo_v.png)
硫黄島上陸作戦の開始から40年後の同日に、島で戦った日米双方の兵士とその遺族ら502名が、第1回の硫黄島戦没者合同慰霊顕彰式で再会しました。この碑は、その際に日米両国の永遠の平和と友好を誓って、硫黄島協会と米国海兵隊第3・第4・第5師団協会が共同で建立した記念碑です。