小笠原諸島の発見

   
幕府が1861(文久元)年に、咸臨丸を小笠原島に派遣したころの父島(小笠原嶋図絵より)

小笠原諸島は1593(文禄2)年、信州深志城主の曾孫、小笠原貞頼により発見されたと伝えられています。人が最初に定住したのは江戸時代後期の1830(文政13)年、欧米人と太平洋諸島民でした。その後、江戸幕府や明治政府の調査、開拓により 1876(明治9)年には国際的に日本領土として認められます。

大正から昭和初期には、亜熱帯気候を活かした果樹や冬野菜の栽培が盛んになり、漁業ではカツオ、マグロ漁に加え、捕鯨やサンゴ漁などを中心に栄え、人口も七千人余を数えるなど小笠原の最盛期を迎えました。しかし、豊かで平和な島「小笠原」は、その後の太平洋戦争により大きな転機を迎えることになります。昭和19年、戦局の悪化により、軍属等として残された825人を除く全島民6,886人が内地へ強制疎開させられました。激戦地となった硫黄島では壮絶な戦いの末、日本軍が玉砕し、日米両軍合わせて2万余名もの尊い命が失われました。 日本が敗戦すると、小笠原は米軍の占領下に置かれることになります。昭和21年、欧米系の島民に限り帰島を許されましたが、他の大多数の島民は故郷への帰島は許されず、慣れない土地での苦しい生活を強いられることになります。 昭和43年6月、小笠原諸島は日本に復帰し、島民の帰島がようやくかなうことになりました。戦後23年間にも及んだ空白を埋めるために、国の特別措置法のもと様々な公共事業が推進され、新しい村づくりが進められています。 硫黄島は、日本復帰後も火山活動などによる自然条件が厳しいことから、旧島民の帰島は実現せず、現在は自衛隊及びその関係者だけが在島しています。
Copyright © Ogasawara Village Office. All rights reserved.
トップページへ戻る