歴史:南鳥島

概要 歴史    

発見

1543年(天文12年)、スペイン人デ・ラ・トーレによって最初に発見されたと言われている。
記録上はっきりしているのは、1864年(元治元年)、ハワイのMISSION SHIP”Morning Star号”の船長Gelettが訪島し、「白い砂浜で、樹木と灌木が密生している。」と報じたのが初めてと言われている。次いで1868年(明治元年) に”David Goadley号”の船長KiLtonが訪島し、「樹木と藪で覆われた低い砂浜の島である。」と抽象的に言及している。
1874年(明治7年)、アメリカ測量船”Tuscarora号”の艦長Belknapが位置を東経154度、北緯24度14分と初めて測量。1880年 (明治13年)、フランス軍艦”Eclai-leu号”の艦長Folnyが、東経153度57分、北緯24度30分と測量し、報告しているが、この二つの 報告が科学的な発表の初めてである。しかし、その頃は、スペイン領マリアナ群島の一部として取り扱われていたようである。
マーカス島という島名は、アメリカ人宣教師の命名と言われている。
日本人として南鳥島に訪れた記録は、1883年(明治16年)11月、高知県の信崎常太郎がコンシロ会社のイギリス船”エター号”にて上陸したのが初めて とされている(吉田弟彦:地学雑誌・明治35年16巻)。なお不確実であるが1879年(明治12年)に静岡県の斉藤清左衛門が発見または上陸したとも言 われている(明治35年7月26日東京新聞)。
1889年(明治22年)6月、米国帆船船長A・Rosehillがこの島を発見・上陸。無人島であることを知り、この島が椰子油と鳥糞(グアノ)の資源 として価値があることを認め、この島の初めての発見者であると誤認し、椰子樹に米国国旗を掲げ、ホノルルに帰港後、同地駐在米国公使を経て、米国国務省に 発見を要請したが、公式の手続きとして取り扱われず、米国国務省内の記録に留められたに過ぎず、13年間放置されていた。

領有

1896年(明治29年)、南洋方面の資源探索を目的として帆船を仕立てて出帆した東京禽獣会社の水谷新六が暴風雨に遭い、同年12月3日に南鳥島に漂 着。上陸し調査。事業開拓に有望な島であることを確認し、12月28日に小笠原から23名が移住させる一方、日本政府に東経152度35分、北緯24度 25分の位置にあるとし、島の貸与方を日本政府に願い出た。日本政府は、水谷からの申請に基づき、1898年(明治31年)7月19日内務省令で同島を 「南鳥島」と命名し、同24日、東京府告示により、同島を東京府小笠原村に所属と定めている。日本政府は、1898年(明治31年)12月、10年間の期 限付きで水谷新六に貸し付けることとした。島での事業は、鳥糞(グアノ)と椰子油の採取が主であった。
1902年(明治35年)になり、かつて一度、1889年(明治22年)にマーカス島に来てこの島が無人島であることと鳥糞(グアノ)と椰子に富むことを 知り、それ以来、米国による領有を望んでいた米国船船長A・Rosehillが同年7月11日にホノルルを出帆し、再度マーカス島へ向かった。この報に接 し、日本領南鳥島水谷村にいる日本人とA・Rosehillとの間に争い事が起きるのを恐れ、日本政府は軍艦「笠置」を同島に派遣した。同年7月島に上陸 した秋元秀太郎海軍中尉らは、3日後、来島したA・Rosehillに南鳥島はすでに日本の統治下に入っていることを告げ、大きな問題もなく引き返すが、 A・Rosehillは、国際問題として提訴、日米間で検討されたが、結果として、日本領土としての南鳥島が確認された。

戦前

南鳥島略図1902年(明治35年)5月、島の南側中央部に「水谷村」を作り、同年8月28日、男29名、女25名、子供4名が確認されている。
1903年(明治36年)、島の業務は、南鳥島合資会社に移り、羽毛鳥糞採取、漁業、鶏肉の缶詰、剥製を業務とし、横浜へ輸送販売を行っていた。
1922年(大正10年)、南鳥島合資会社から全国肥料株式会社に移る。鳥糞(グアノ)採取は、島中央部にトロッコレールを敷設して大規模に行われ、生産量は年間1,000~3,000トンと活気を呈し、住民も30~50人であった。
1933年(昭和8年)、日本海軍館山海軍航空隊から一五式飛行艇で南鳥島調査。住民5戸程度、業務は漁労であった。
当時の生活は、遠隔離島であり、補給物資の供給が難しいのに加え、脚気や伝染病の問題や低平な小島のため強風と高潮の被害に耐え忍ぶものであった。 1902年8月に約50名いた島民は、同年11月以降猛威をふるった赤痢によって19名が死亡したこと、資源も枯渇してきたことにより事業も衰退し、 1935年(昭和10年)に無人島となった。

戦中 ~ 終戦

1935年(昭和10年)日本海軍が駐屯し、先住民の民家、工場等施設が取り払われ、新しい軍施設が建設され、同年10月より海軍水路部気象班により気象 観測が開始された。1936年(昭和11年)には、軍事拠点としてクローズアップされ、1500mと600mの飛行場、兵舎、通信、南岸桟橋と建設され、 一応の軍事施設が完了した。日華事変、太平洋戦争へと戦火は拡大し、この島の軍事上の重要性が増大し、全島が要塞化され、太平洋戦争時には、横須賀鎮守府 傘下の南鳥島警備隊(海軍)、南海第二守備隊(陸軍)並びに横須賀海軍航空隊。南鳥島分遣隊(陸攻六機)がその防備、対潜哨戒等を行い、約4,500名の 兵員が配備された。大戦中は硫黄島のような上陸戦や地上戦はなかったがアメリカ軍による度重なる空襲や艦砲射撃により多くの戦死者、戦傷者を出している。 1945年(昭和20年)8月、南鳥島は、米軍が上陸することなく終戦を迎えた。終戦により日本軍将兵はすべて本土に全員復員。島はアメリカの管理下に置 かれ、島名は、マーカス島となった。1947年(昭和22年)の台風の来襲とともに高潮があり、島の大半がこの高潮に流されてしまったため駐屯していた米 軍は全部引上げ、マーカス島は、再び無人島となった。

南海岸トーチカ
南海岸トーチカ
大砲
大砲
戦車
戦車

戦後 ~ 現在

1951~1963年(昭和26~38年)には、日本の気象庁がアメリカ政府の委託を受け、気象観測業務を行った。1963年(昭和38年)にアメリカが高さ400mのアンテナを持ったロランC局を建設。完成に伴い米国気象局に引き継がれ、日本人による観測業務を終えた。
1967年(昭和42年)、佐藤・ジョンソン会談で小笠原返還について合意。
1968年(昭和43年)4月5日、小笠原諸島返還協定調印。
1968年(昭和43年)6月26日、小笠原諸島返還。この返還に合わせ、海上自衛隊南鳥島航空派遣隊と気象庁南鳥島観測所が設置され、業務を開始した。
1993年(平成5年)3月、大気バックグランド汚染観測所を設置し観測開始。また、ロランC局を米国から海上保安庁が引継ぎ、業務を行った。
1996年(平成8年)4月、遠地津波観測開始
2009年(平成21年)12月、ロランC局廃止に伴い、海上保安庁職員の現地勤務を終えた。
ロランC局
ロランC局