文化財

1.小笠原村指定有形文化財

(1)漂流者冥福碑(ひょうりゅうしゃめいふくのひ)  所在地 小笠原村父島字奥村 指定日  平成22年7月22日

漂流者冥福碑(ひょうりゅうしゃめいふくのひ)文久元年12月(1862年1月)、江戸幕府は小笠原島回収・開拓のため、外国奉行水野筑後守忠徳率いる一行を幕府軍艦咸臨丸で派遣し、小笠原島を調査させた。

翌年の文久2年8月(1862年9月)、八丈島の移民を乗せた幕府軍艦朝陽丸で、この碑を運搬し奥村の地に建立した。小笠原島に漂流し亡くなった と思われる者の霊を慰めるためである。同時期に建てられた小笠原新治碑(父島字扇浦)とともに、小笠原島が日本の古くからの領土である証拠の一つとなるよ うにとの意味もあって建てられたものである。

平成5年(1993年)、小笠原村が土砂に埋もれていたこの碑を掘り起こし、他の墓石等とともに周辺より一段高くして、土砂に埋もれないよう整備した。


(2)にほへ碑(にほへのひ)  所在地 小笠原村父島字扇浦  指定日  平成22年7月22日

にほへ碑(にほへのひ)文久2年(1862年)、幕府軍艦朝陽丸で八丈島から移民させた開拓農民30名のうち8名が子どもだった。幕府役人の原又吉は、子どもたちに読み書き手習いを教えた。この碑は、使い終えた筆を供養するための筆塚として文久2年の冬に建てられた。

ところが、文久3年(1863年)、幕府は小笠原島開拓を中断し、役人や開拓農民も皆引き揚げることになった。

明治期に、再び小笠原島の開拓が始まり、いつの頃からか分からないが、倒れていた「にほへ碑」を村民が建てなおしたという記録がある。

江戸時代末期、短い間だったが、寺子屋式の教育が小笠原で行われたことを今に伝える碑である。


(3)蟲塚(むしづか)  所在地 小笠原村母島字船見台  指定日  平成22年7月22日

蟲塚(むしづか)母島では、明治10年代からサトウキビ栽培、昭和に入ってからは冬季野菜栽培が盛んに行われた。

バッタ(イナゴ)の大発生によって、サトウキビ栽培が被害を受け、その駆除に苦労したという。農家にとって、害虫駆除はどうしても必要な作業であ る。しかし、虫も生き物であり、殺生したものの供養のため、蟲塚が建てられたという言い伝えがある。その後、栽培作物が変わっても害虫駆除は続けられた。

この蟲塚は、母島の農業が戦前もっとも盛んであった昭和10年(1935年)8月に建てられた。

蟲塚とその台石は、母島に産するロース石でできている。

3.国指定文化財

(1)特別天然記念物(1)
種類 名称 指定年月日
鳥類 メグロ 昭和52年3月15日

(2)天然記念物(29)
種類 名称 指定
獣類 オガサワラオオコウモリ 昭和44年4月12日
鳥類 (メグロ) アカガシラカラスバト 昭和44年4月12日
オガサワラノスリ 昭和46年5月19日
昆虫類 オガサワラシジミ、シマアカネ、オガサワラトンボ、オガサワライトトンボ、ハナダカトンボ、オガサワラタマムシ 昭和44年4月12日
オガサワラセスジゲンゴロウ、オガサワラアメンボ、オガサワラクマバチ、オガサワラゼミ 昭和45年11月12日
陸貝 ヤマキサゴ科、クビキレガイ科、カワザンショウガイ科、オカミミガイ科、オカモノアラガイ科、ノミガイ科、キバサナギガイ科、キセルガイモドキ科、エンザガイ科、コハクガイ科、ベッコウマイマイ科、ナンバンマイマイ科 昭和45年11月12日
その他 △カサガイ △オカヤドカリ 昭和45年11月12日
地質鉱物 南島沈水カルスト地形 平成20年3月28日
区域 南硫黄島 昭和47年11月12日

(3)都指定文化財(12)
種類 名称 指定
有形文化財(古文書) 折田家総括録 昭和55年2月21日
小笠原新治碑 昭和2年3月
小笠原開拓碑 昭和2年3月
ナサニエル・セボレーの墓碑 昭和54年3月31日
有形文化財(歴史資料) 小花作助関係資料 平成2年3月22日
有形民俗文化財
(民俗資料)
ロース石関係資料(建造物・石切場跡) 昭和59年3月22日
無形民俗文化財
(民俗芸能)
小笠原の民謡 昭和62年2月24日
小笠原の南洋踊り 平成12年3月6日
旧跡 小笠原神社 昭和2年3月
旗立山 昭和2年3月
小笠原島庁跡 昭和2年3月
史跡 モットレイ夫妻墓・良志羅留普墓 昭和57年3月2

2.文化財指定状況

  区分 個数
国指定 特別天然記念物
天然記念物 29
都指定 有形文化財
有形民俗文化財
無形民俗文化財
記念物 旧跡
記念物 史跡
村指定 有形文化財