歴史:硫黄島

ハンドブック「硫黄島クロニクル~島民の運命(さだめ)~」

全国硫黄島島民の会により、硫黄島でのかつての島民の生活の様子をまとめた
ハンドブック「硫黄島クロニクル~島民の運命~」が作成されました。
開拓から現在に至る歴史をたどりながら島民のリアルな証言をコラムとして紹介しています。
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▲「硫黄島クロニクル~島民の運命(さだめ)~」(PDF)

※著作権は全国硫黄島島民の会に帰属します。
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歴史年表

1543年(天文12年) スペイン戦艦「サン・ファン・デ・レトラン号」(船長ベルナルド・デ・ラ・トーレ)によって硫黄列島が発見された。
1779年(安永8年) イギリスの艦隊が硫黄列島を目撃。硫黄列島の3島を
「ノース・アイランド」「サルファー・アイランド」「サウス・アイランド」と命名。
1873年(明治6年) 小笠原の領土所属をめぐって日英米間で論争がさかんに。
明治政府は小笠原を領有統治する方針を固める。
1875年(明治8年) 外務省官吏田辺太一等の調査団が父島・母島に派遣され、小笠原の住民に対して日本の所属となることを宣言。
1876年(明治9年) 3月、小笠原を内務省所管とする。
10月、諸外国に小笠原が日本の領土と通告し、日本領土と確定。
1887年(明治20年) 11月1日、高崎五六東京府知事が灯台巡視船・明治丸で横浜港を出帆、三宅・八丈・小笠原諸島を巡回。
11月10日、硫黄島を探査。
1889年(明治22年) 6月、田中栄二郎が硫黄島へ渡航。北硫黄島にも寄る。
8月3日、南硫黄島で4年間生活していた遭難者発見。
12月、小笠原島庁荒川義邦が硫黄島調査。
1890年(明治23年) 小美田利蔵が硫黄試掘願を農商務大臣に提出
1891年(明治24年) 9月9日、勅令をもって硫黄列島が東京府小笠原島庁管轄となる。北硫黄島、硫黄島、南硫黄島と名称を定めた。
11月、小笠原島庁の公標が硫黄島に建つ。
1892年(明治25年) 5月16日、硫黄鉱山試掘願が農商務大臣によって許可された。
1896年(明治29年) 石野平之丞が北硫黄島に上陸。
1898年(明治31年) 硫黄島からの輸出用・運送用に艀漁船・小廻船2艘と年2回の定期船便を利用。
そのうちの1回を南硫黄島まで迂回させ、遭難者の有無の確認することに。
1899年(明治32年) 石野平之丞が母島から北硫黄島に移住、開拓を開始。
1902年(明治35年) 北硫黄島に私設小学校が開校。
1903年(明治36年) 硫黄採掘一時停止。
1904年(明治37年) 7月、北硫黄島の私設小学校が石野村尋常小学校として認可。
小笠原島庁が吏員による島内面積を実測(1904・1907・1910年)
1906年(明治39年) 東忠三郎が仮校舎を硫黄島西海岸近くに建て私設小学校が開校。
1907年(明治40年) 内地から定期航路が年6回、硫黄島と北硫黄島に寄港するようになる。
1910年(明治43年) 警視庁は硫黄島に巡査在勤所を設置。巡査1名を配置。
1911年(明治44年) 在郷軍人分会と硫黄島青年団が結成される。
1912年(明治45年)
(大正元年)
8月12日、東京地学協会伊豆南方諸島学術調査団が硫黄島を調査。
12月9日、久保田拓殖合資会社設立。
1913年(大正2年) 6月15日、大正尋常小学校が開校。児童数56名。
1914年(大正3年) 世話掛が置かれる。初代世話掛に島庁第一課長の尾崎登代田赴任。助役収入役青木千蔵就任。
1915年(大正4年) 大正尋常小学校に実業補習学校が併設される。
1918年(大正7年) 北硫黄島青年会が結成される。
2月6日、大正尋常小学校に高等科併設の申請書提出。
7月15日、高等科併置認可。東京府小笠原島大正尋常高等小学校設立。
10月3日、処女会(女子青年団の前身)創設。育英既定の設立。
1919年(大正8年) 久保田宗三郎が開拓と島民安定の功績により東京府より表彰される。
久保田拓殖合資会社は地熱利用による製塩業を本格的に開始。
1920年(大正9年) 久保田拓殖合資会社は株式会社に組織変更。
硫黄島拓殖製糖株式会社となり、製糖事業を本格化。
1922年(大正11年) 南海岸までの道路の整備、南海岸の施設整備を行う。
6月24日、安宅吉次郎校長により「御真影御下賜願」島庁経由、府知事宛稟請書提出。
8月15日、小学校に御真影設置。
1925年(大正14年) 大正尋常高等小学校校舎増改築および屋根葺き替え。
1926年(大正15年
昭和元年)
6月、大正小学校が徴兵署として使用され始める。
6月30日、大正実業補習学校学則一部改正し、名称を大正農業補習学校と変更。
1928年(昭和3年) 御大典奉祝記念行事が行われる。
コカの乾燥場完成。
1929年(昭和4年) 分教場新築。
1930年(昭和5年) コカ栽培事業が順調で、大倉庫・事業部事業所を建設。
1931年(昭和6年) 蓄電池による学校ラジオ受信機を設備。ラジオ塔が設置される。
学校職員による日刊島内新聞がスタート。 
1932年(昭和7年) 小作人組合が結成され、小作争議が起こる。
青年訓練所で教練実施。
1933年(昭和8年) 学校にミシンを購入し洋服を製作。
海軍戦闘機飛行場(南北800m、東西200m)千鳥が原に仮設。
レモングラスオイル生産が開始され、元山噴気口附近に工場建設。
再度小作争議。硫黄島拓殖製糖会社に対して小作人が待遇改善要求。
1934年(昭和9年) レモングラスオイル生産活動が活発化し、輸送用トラック3台が稼働。
内地への教育視察。
1935年(昭和10年) 農業補習学校と青年訓練所が合併し、青年学校が設置・発足。
1936年(昭和11年) 青年学校兵器倉庫兼家庭科実習室建設。
硫黄島拓殖製糖株式会社の名称が硫黄島産業株式会社に改められる。
1937年(昭和12年) 海軍飛行場増設。
模写写真撮影等が禁止される。
1939年(昭和14年) 中央気象台硫黄島観測所が設置される。
愛国婦人会分区創設。会員165名により出征軍人家族援護の事業活動を行う。
1940年(昭和15年) 3月、硫黄島観測所無線局が硫黄島公衆無線電報取扱所となり、電報が使用可能に。郵便局が開設。
4月1日、硫黄島に町村制が適用され硫黄島村となる。北硫黄島は東京府小笠原支庁直轄が継続。
第一飛行場建設開始。労務者約2,000名就労。
小笠原食品株式会社が設立し、労働者対象にしる粉、まんじゅう、だんごなどを販売。
1941年(昭和16年) 小学校制度廃止され、学校名称を硫黄島村大正国民学校と改める。
大正国民学校教育簿に教育信条明記。
1942年(昭和17年) 和智恒蔵海軍中佐が1,000名以上の警備隊引率上陸。小笠原食品株式会社はこの部隊に野菜を納入。
軍部は島内民家に分宿を始める。
1943年(昭和18年) 小笠原で零戦機献納献金運動が起こる。硫黄島島民も献金運動に合同。
7月1日、東京都小笠原島硫黄島村大正国民学校と校名変更。
9月、父島方面特別根拠地隊の一部230名上陸。横須賀鎮守府派遣隊員800名上陸。
飛行場滑走路1,200m×200m完成。海軍一式陸攻(双発爆撃機)の離着陸が可能になる。
1944年(昭和19年) 2月、海軍機が監獄岩に不時着。
3月、海軍硫黄島警備隊新設(和智恒蔵海軍中佐司令以下39名)。父島の小笠原地区兵団から陸軍部隊が硫黄島に進出し、伊支隊として発足(厚地兼彦大佐以下4,883名)。
4月、学校校庭が軍用物資の集積所に。
5月、米軍機来襲し、硫黄島神社附近爆撃。
6月8日、小笠原諸島所在部隊を改編し第109師団編成。栗林忠道中将着任。
6月15日、初めて艦載機の空爆を受ける。
6月16日、約100機の爆撃機来襲し、全島被害。軍部から学校閉鎖の要請および学童の疎開勧告。
7月1日、軍部から疎開命令。
7月3日、硫黄島から村民第1陣疎開。
7月7日、硫黄島から村民第2陣疎開。
7月14日、硫黄島から村民第3陣疎開。
1945年(昭和20年) 2月16日、米軍上陸。戦闘開始。
3月21日、日本の大本営が硫黄島守備隊の玉砕を発表。
1946年(昭和21年) 1月29日、行政権分離による覚書により、父島・母島などとともに連合軍施政権下に入る。
1951年(昭和26年) 対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)調印
1952年(昭和27年) 対日平和条約が発効し、米国の施政権下に。
第1回遺骨調査、収容。
1965年(昭和40年) 東京都による硫黄島墓参事業開始。
1968年(昭和43年) 6月26日、硫黄列島を含む小笠原諸島の施政権が日本に返還。小笠原村設置。東京都小笠原村支庁の所管となる。
自衛隊による飛行場の運用開始。海上自衛隊硫黄島航空基地分遣隊を設置。
1969年(昭和44年) 1月、硫黄島帰島促進協議会結成。
1970年(昭和45年) 8月、小笠原諸島復興計画決定「帰島および復興計画の対象は、当面父島および母島とし、硫黄島については、不発弾処理及び遺骨収集の状況との問題において復興の方途を検討する」こととし、復興事業の対象から除外される(以降継続)。
1972年(昭和47年) 南硫黄島が国の天然記念物(天然保護区域)に指定される。
1975年(昭和50年) 南硫黄島が日本初の原生自然環境保全地域に指定される。
1982年(昭和57年) 環境庁が南硫黄島を調査。
1984年(昭和59年) 5月31日、小笠原諸島振興審議会は「硫黄島は火山活動による異常現象が激しい上、産業の成立条件も厳しく、一般住民の定住は困難」との答申を出す。
6月、小笠原諸島振興計画(改定10箇年計画)の決定「硫黄島および北硫黄島については、一般住民の定住は困難であると考えざるを得ないことに鑑み、旧島民に報いるための措置および集団移転事業に類する措置を講ずるものとする。」
12月、小笠原諸島振興審議会の意見具申「旧島民に報いるための措置の具体化として、総額5億6,200万円の見舞金を支給すること。」
1985年(昭和60年) 2月19日、日米双方の元軍人・退役軍人ら400名による合同慰霊祭。
1986年(昭和61年) 3月、見舞金の支給事務終了。
1990年(平成2年) 11月9日、戦前の島民墓地跡に建設を進めてきた硫黄島旧島民平和記念墓地公園の竣工式典が行われる。
1991年(平成3年) 3月、硫黄島開拓之碑(小笠原村)および硫黄島旧島民戦没者の碑(旧島民有志)建立。
7月、北硫黄島で石野遺跡が発見される。
1994年(平成6年) 2月12日、天皇、皇后が硫黄島を訪問される。
米沿岸警備隊のロランC基地撤去。
1996年(平成8年) 6月21日、行幸啓記念碑除幕式挙行。
1997年(平成9年) 6月、小笠原村による、おがさわら丸を利用した硫黄島訪島事業(墓参)が開始。
2002年(平成14年) 6月21日、硫黄島平和祈念会館を建設。墓参や遺骨収集などで訪島した人の宿泊施設として開所。
2005年(平成17年) 6月19日、小泉純一郎内閣総理大臣が現職首相として初めて硫黄島を訪問、戦没者追悼式に出席。
2007年(平成19年) 6月17~27日、東京都と首都大学東京が合同で南硫黄島の自然環境調査を実施。
6月18日、地名等の統一に関する連絡協議会(国土地理院と海上保安庁海洋部で構成)において、硫黄島の読みが「いおうじま」から「いおうとう」に変更され、あわせて北硫黄島は「きたいおうとう」、南硫黄島は「みなみいおうとう」にそれぞれ変更
2010年(平成22年) 8月10日、菅直人内閣総理大臣の下に、硫黄島の遺骨帰還に関する特命チームが発足。
2013年(平成25年) 4月14日、安倍晋三内閣総理大臣が硫黄島で開催された戦没者追悼式に出席。
2014年(平成26年) 国土地理院による調査で、硫黄島の面積が父島を抜いて小笠原諸島最大になっていることが判明。